「察してほしい」の落とし穴

日本の文化の中でも「空気を読む」「察する」というものが当たり前とされていることが多くあります。例えば「言わなくてもわかるでしょ?」とか「雰囲気で察してよ」といったたぐいの言葉です。

確かに状況を把握して先読むことだったり、相手の表情から感情を読み取ったりすることは人と関わる上では必要なことだといわれています。では、どこまでを察すればよいのでしょうか?今ある状況を考えれば次にどのようなことをすればよいのかは経験上わかることもあります。ですが人の感情はどうでしょうか?相手が言葉にすることなく「わかって」「察して」という暗黙の雰囲気や圧でもってわかるものなのでしょうか?

ひとは言葉にせずともわかってもらえるということに安心を覚える事が多々ありますが、それは何も語らずとも「この人ならこう考えるだろう」「この人ならこうするだろう」という予想が出来るほど相手のことを知っている・理解できているからこそ「察する」ことが出来るようになっていくのではないでしょうか。

ではもし「相手の考えているであろうことが想像できる」ほどの関係ではない人、もしくはまだそこまでの関係を作り切れていない人に「察してくれ」という「相手の想像力に任せる形のコミュニケーション」ばかりと取ってしまうとなるとどうなると思いますか?

そこには察してほしい人が想像することと自分がわかってほしいことが違うという誤解が生まれることが多くなります。その誤解があるまま「わかってるはず」という考えで会話を進めていくと…会話がかみ合わず「結局わかってないしわかってもくれない」といった嫌な感情を抱える形になったりしませんか?

察してね
わかっているはずよね

こういった「相手の想像力に任せるコミュニケーション」は誤解が生じるリスクが高くなり、結果として満足・安心できるような関係を築きにくくしてしまいます。

もしあなたが今理解してほしいと思う人がいるならば、なぜか周りの人は私のことをわかってくれないと感じることがあるならば、ぜひ自分が考えていること感じていることを言葉にして伝えるという選択をしてみてください。

伝えるということは相手との関係を盤石なものにするために必要な作業なのですから。

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